えむず1203 diary

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【沖縄と戦争】沖縄県平和祈念資料館とひめゆり平和祈念資料館

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高校生の時、沖縄が大好きば政治経済の教科担当の先生がいました。その先生は、沖縄の何が好きかというと、歴史や気候、全てが好きだと言っていました。

 

当時私は、HYが大好きで、HYの曲で「時をこえ」というおばあやおじいに聞いた、戦争の曲があり、その曲を先生に教えると、アルバムを貸してくれと言われ、とても気に入ってくれました。

 

その時は私はただの「曲」と思って聞いていたのですが、今回沖縄本島にて、ひめゆりの塔や沖縄県平和祈念資料館に言って、この曲がどれほど切ないものかを知りました。

 

今日は、「沖縄と戦争」について私が学んだことを、まとめたいと思います。

沖縄県平和祈念資料館

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沖縄県の糸満市にあり、沖縄戦の実相や、訓練を構成に正しく継承したい、さらには、平和創造の学習のために建てられたものです。

 

一帯が公園となっており、その中に記念資料館があるのです。入場料は1人300円です。

 

資料館では、戦争の始まりから、沖縄県・日本奪還までを細かく記されていました。

 

資料館以外には、沖縄戦により亡くなった日本兵、民間人、米兵隔てなく全ての人の名前が刻まれた石碑などがあります。

kouen.heiwa-irei-okinawa.jp

沖縄戦の始まり

みなさんがどんな捉え方をしているのか、詳しく知らないという人も中にはいると思います。

 

私も、今回この資料館やひめゆりの塔にある資料館に行くまで知りませんでした。

 

日本が近隣諸国への進出を企て、満州事変やその他日中戦争、アジア・太平洋戦争へと拡大していき、15年戦争の最後の決戦場所となったのが、沖縄なんだそうです。

 

しかし、沖縄にはたくさんの民間人が取り残されてしまし、空からの攻撃、陸からの攻撃の犠牲になってしまったのです。

民間人はアメリカ軍の収容所に収容されたが・・・

多くの民間人が取り残されていましたが、アメリカ軍により、民間人は収容所に収容されていました。

 

しかし、収容所では十分な食事を与えてもらえず、栄養失調やマラリアなどの感染症によりまた、多くの人が犠牲になったそうです。

沖縄戦での犠牲者

日本兵や民間人だけでなく、アメリカ兵にも多くの犠牲者が出てしまいました。

 

兵士の中には、多くのけが人や、精神病患者も出ていたそうです。精神患者の数の多さがこの沖縄戦の壮絶さを語っているのです。

 

日本兵・民間人合わせた犠牲者数、188,136名。

 

アメリカ軍犠牲者、12,520名。

 

本当にたくさんの人が亡くなっているのです。

戦後の沖縄県はどのような動きだったか

表向きには、日本は戦争に負けたことを認め、戦争は終わったと思われたが、その後数日間は、アメリカ軍の攻撃は続いたと言います。

 

さらには、民間人の集団自殺や、民間人同士の虐殺もあったそうです。

ひめゆりの塔・ひめゆり平和祈念資料館

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ひめゆりの塔は、沖縄陸軍第三外科が置かれた壕の跡に建てられた慰霊碑です。

 

資料館は、平和であることの大切さを訴え続けるために、当時の女学生たちを筆頭に建設されたそうです。

 

沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女子学校の女子生徒222名、教師18名が看護要員として配属されました。

 

沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女子学校の生徒を合わせて、「ひめゆり」と酔われていたそうです。

 

この、「ひめゆり」から名前が取られたんですって。資料館への入館料は一人310円です。

www.himeyuri.or.jp

女学生の学生生活

学生は、全部で6学年あり、学年によって髪型が決められていたそうです。例えば1年生は前髪ぱっつんおかっぱ、2年生になれば前髪を分けておかっぱとどんどん可愛らしくなっていきます。

 

1944年の11月から突然、看護訓練が始まりました。その後、1945年3月24日の夜中に、学校長から呼び出され、沖縄陸軍病院に看護要員として配属されたそうです。

 

配属された先の壕では、人間の声とは思えないうめき声や、兵士たちの叫び、ウミや血、排泄物などの匂いが充満しており、むせ返るような匂いだったそうです。

 

その時の女学生は、日本が戦争に勝ち、すぐに今まで通りの生活に戻れると思っていたそうです。

 

そのため、手鏡などの女子には欠かせない手回品や、勉強できるように、ノートや筆記用具なども持参していたそうです。

戦争は授業の延長線上だと思っていたが・・・

実際には、そうすぐには戦争は終わらず、過酷な看護生活が50日以上も続いたそうです。

 

女学生の主な仕事は、水くみや食事の運搬、伝令、死体の埋葬でした。これはどれもこれも、壕の外での危険な仕事でした。

 

飛んでくる空襲や爆弾、銃弾などが収まる時間帯を狙い、命をかけて、兵隊さんのために働いていたそうです。

 

ある日、女学生の中で、初めての犠牲者が出てしまいました。突然の学友の死に皆、ことの重大さに気が付いたそうです。

 

本当に命をかけて、一生懸命働かなければならないと、決心したそうです。

突然の解散命令

1945年6月18日、もはや日本に勝ち目はないと、絶望的な状況であった中、突然解散命令が出されたそうです。

 

今まで一生懸命、命をかけて、兵士からの罵声を浴びたり、顔がぐちゃぐちゃになり、口がどこにあるかわからないような患者に水をあげたりしていた中、突然の解散命令。

 

女学生たちはどうすることもできず、壕から逃げ出せずに、アメリカ軍の攻撃により命を失ったもの、壕から飛び出し銃弾や空襲に巻き込まれ命を失ったもの、アメリカ軍に見つかり、保護され命が助かったもの、、、

 

たくさんの運命が待っていたそうです。

当時の女学生の証言VTR

ひめゆり平和祈念資料館では、証言VTRが残されており、その中のお話をいくつか紹介いたします。

突然の解散命令に混乱していましたが、私は1人の友人と一緒に逃げました。そして、一つの山を越えることにし、一生懸命走って山を越えることができました。その時は、「やったぁ。これでアメリカ軍から逃れれることができたわ。」と思っていました。しかしそこはアメリカ軍の拠点の真ん中だったの。一人の軍人が近づいてきたから、私たちは手を握りあい、「早く私たちを殺して!!」そう叫んだの。軍人が「あぁ。今すぐ楽にしてやる。」といったから、私たちは目を閉じてその時を待っていました。ですがしばらくしても何もしてこないんです。目を開けると軍人は、手榴弾を握りしめ、「僕に君たちを殺すことなんてできないよ。」といったのよ。

△Aさんの証言

私は、友人と何人かで壕から逃げ、走っていたけど、もう走れないと、物陰に隠れていました。ある女の子はとても芯のある子で強い子だったので、私たちはその子に小刀を渡し、「これで私たちを殺して!!お願い!!」そう言いましたが、彼女は、「私がこれでお腹を切るから、私がやった後にみんなも同じようにして!」と言われました。ですが、「私たちには自分で腹を切るなんてとてもじゃないけどできないわ!!あんたが私たち全員殺してその後自分で死んで!!」といいました。ですが、そうこうしている間にアメリカ軍に見つかり保護されました。

△Bさんの証言

 

証言VTRの他にも、文字で証言を残してありました。

 

ひめゆり平和祈念資料館・沖縄県平和祈念資料館どちらも撮影禁止のため、写真を載せることはできませんが、少しでも当時の状況を多くの人に伝えたいと思いました。

終わりに

今回、これらの場所に行くまで、私は沖縄戦のことは全く知りませんでした。

 

高校生の時に政治経済の先生がなんかいってたな〜くらいにしか思っていませんでした。

 

しかし、今回このように学ぶ機会があり、絶対沈むだろうと思いながらも行ってよかったとおもいました。

 

たくさんのことを学ぶことができました。皆さんも沖縄本島にきた際にはぜひ、足を運んでみてはいかがでしょうか。